7月のおはなし ~寛永寺 その①~

ここのところTVや書籍、タウン誌にスマートフォンアプリなど実に様々なジャンルから取材の依頼を頂いております。
それぞれ現在の観光地としての見所をご紹介したり、江戸時代の寬永寺はどんなお寺だったのか、德川幕府との関係はどんなものだったのか等々、掲載メディアに応じた内容でお答えしているのですが、どうしても時間や文字数の関係で全ては説明しきれません。
ついては改めて「寬永寺」とはどんなお寺なのか、数回に分けてお話していきたいと思います。

寛永は江戸時代初期の「寛永2(1625)年」に創建されました。これは現在の東京国立博物館所在地に「本坊(寛永寺圓頓院)」が建立されたのを創建年としています。
では寬永寺が建つ前の上野の山はどんな様子だったのでしょう。

戦国時代頃までの上野の山は「忍岡(しのぶがおか)」と呼ばれる飛鳥山方面から続く丘陵の終点となる台地でした。
そこに江戸時代の初め、藤堂高虎など諸大名の屋敷を建設するための整地が行われました。

同じ頃、德川家康公と天台宗の高僧「南光坊天海」は縁を深め、家康公は天海僧正に深く帰依すると共に、江戸に天台宗の一大拠点となる寺院を建立する計画を進めていました。
この計画は残念ながら家康公の存命中には実現しませんでしたが、元和2(1616)年に家康公が没すと、天海僧正は家康公の神号を権現とすることを主導し幕府がそれを朝廷に奏請、東照大権現の神号が定められたことから僧正は幕府からも深い信頼を得ました。

そして二代将軍德川秀忠公の治世である元和8(1622)年、(諸大名には代替地を与えて)忍岡台地を天海僧正に下賜し、新寺の建設予定地としたのです。
また元和9年に德川家光公が三代将軍に就任すると援助はさらに積極的になり、土地の下賜からわずか三年で本坊の落慶(完成)を迎えたのです。
これには家光公から家康公と天海僧正への篤い敬慕の念が関わっているのですが、筆者の大好きなエピソードなので別回でもっと字数を確保してご紹介したいと思います。

さて、今の寬永寺は德川将軍家の菩提寺として歴代将軍の墓所をお守りしていますが、創建当初は境内に将軍のお墓を作る予定はありませんでした。
なぜなら新しく建てるその寺は、平安時代より京の都と御所の鬼門に位置してその安泰を守る鎮護国家の祈祷寺「比叡山延暦寺」を江戸に再現することを意図しており、その為にも江戸城の北東にあたる忍岡が適していたのです。
さらには延暦年間に発足した比叡山延暦寺が勅許により年号を冠していることにも倣い、同じく勅許を得て年号の寛永と東の比叡山を意味する山号とを合わせて「東叡山寛永寺(とうえいざん かんえいじ)」と名乗り、この上野の台地から江戸と幕府の安泰、そして日ノ本の平穏と万民の幸福を神仏に願い祈りを捧げる祈願寺として発足したのです。
(つづく)

東叡山寛永寺 教化部