11月のおはなし ~寛永寺 その⑤~

今月は東照宮について、先月の続きからおはなししていきます。

かくして家康公の神号は大権現(だいごんげん)に決定しました。
そして朝廷から示された四案の内から、東照大権現の本地仏(ほんじぶつ)かつ、家康公に縁の深い薬師如来(やくしにょらい)とも通ずる「東照(とうしょう)」が神名として採用され、「東照社」に祀られました。
そう、この時点ではまだ「社(しゃ)」なんですね。
その後、正保2年に「宮」号の宣下により東照「社」から東照「宮(ぐう)」となったのです。

東照宮は、神仏習合(しんぶつしゅうごう)という神と仏を別物としない信仰に依って祀(まつ)られているため、本地仏である薬師如来を祀るお寺(お堂)と一緒でなければ、本来、成り立たないのですが、明治維新の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により上野東照宮は神社として寛永寺と切り分けられ、現在は別々に運営管理されています。

ところで、寛永寺は東照宮から建物をいただいています。
寛永寺が現在地で根本中堂(こんぽんちゅうどう)を再建する際、川越の喜多院(きたいん)からお堂を譲り受けました。
お堂をいったん解体して、新河岸川(しんがしがわ)の水運で木材を上野まで運んだのだそうです。
そして再び組み上げる際に、そこに東照宮の薬師堂(やくしどう)も合わせて一つの堂として完成させた。
この時の寛永寺は、明治維新の影響が色濃く残っており、困難な時代でした。
そのような物資が満足でない中、当時の職人の創意工夫により、現在の根本中堂の威容(いよう)があると思うと、お堂自体にも不思議と手を合わせたくなりますね。

そんな寬永寺の根本中堂、現在地で約140年が経過し、またその前に喜多院と東照宮にそれぞれのお堂として建立されたのは江戸時代初期ですので、部材としては三百数十年が経過しております。
そのような歴史的経緯もあり、根本中堂(及び德川慶喜公ご謹慎・葵の間)は令和3年7月に文化庁より登録有形文化財として認可されました。
そして、根本中堂に安置される秘仏本尊「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)像」は重要文化財に指定されておりますので、有形文化財の中に重文が安置されているということになります。
ちなみにこのご本尊、伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)さまがご自身で彫られたと伝えられる、大変に由緒正しいお像で、江戸時代に石津寺(せきしんじ・滋賀県草津市)から譲り受けました。
千年以上の歴史を持つお像ですから、日頃は秘仏(ひぶつ)として大きなお厨子(ずし)の中で厳重に安置しているのですが、実はただいま、東京国立博物館にご遷座(せんざ)なさっています。
天台宗では現在、伝教大師1200年大遠忌(だいおんき)を記念する、特別展『最澄と天台宗のすべて』を東京国立博物館にて開催しているのですが、この東京国立博物館は、江戸時代まで寬永寺本坊円頓院(ほんぼう えんどんいん)のあった場所です。そのような縁もあり、特別に秘仏本尊を公開しているのです。

東京国立博物館での展覧会の会期は令和3年11月21日までです。
この機会により多くの方にお参り頂けますよう、ご案内申し上げます。

東叡山寛永寺 教化部