間もなくお彼岸、寛永寺では春分の日に彼岸会の法要を執行いたします。そこで今回は「彼岸」をめぐるおはなしです。
「彼岸」の語源は、古典インド語であるサンスクリット語で「パーラミター」といい、正確な意味合いは「迷いの世界であるこちら側の岸(此岸)からさとりの世界であるあちら側の岸(彼岸)に到る」という意味になります。もちろん彼岸は仏さまの世界であり、仏さまの世界ということはさとりの世界、ということになります。
ところで、どうしても「お彼岸」は先祖供養が中心となるため、さとりの世界は死後の世界と考えてしまいがちですが、先人たちは生きているうちにさとりの世界を理解しようと考えました。もちろん、さとっていない私たちがさとりの世界なんてわかりっこない!という意見もありました。ところが、私たちが絶対に理解できないことを仏さまが教えるでしょうか。お釈迦さまの高弟の舎利弗(しゃりほつ)は、ものすごく難しいことを学んで厳しい修行をしないと絶対にさとれないと思っていたのですが、そうした舎利弗がビックリすることをお釈迦さまは『法華経』で教えます。
童子(どうじ)の戯(たわむ)れに 沙(すな)を聚(あつ)めて仏塔(ぶっとう)となせり
かくのごとき諸人等(しょにんら) 皆、すでに仏道を成(じょう)じき (『法華経』)
(子供たちがかわいらしくお砂遊びで、仏さまを供養するための「塔」を作りました。このような子どもたちは、みなすでに仏の道を達成し、さとりを得ているのです)
舎利弗としては修行をしている自負があるため、子どもの砂遊びで!?と衝撃を受けたことでしょう。しかし子どものお供えをしたいという純粋な気持ちには曇りがなく、その精一杯の表現がお砂遊びであったのです。それがまさにさとりの世界に通じることを、お釈迦さまは見抜いていらしたのでした。
さてあなたにとってさとりの世界はどこにあるでしょうか。お墓まいりの際にあれこれ考えてみたいものです。