8月のおはなし ~寛永寺 その⑬~

前回に引き続き寛永寺の各お堂などを個別にご紹介していきます。
今回は上野大仏(うえのだいぶつ)です。

上野公園のほぼ中央、精養軒の向かい側には小高い山があり、二十段ほどの階段を上ると、山上にはドーム型の建物と仏さまの大きなお顔が見えてきます。
この大きなお顔、もともとこの地にあった大仏殿(だいぶつでん)の主、銅製(どうせい)釈迦如来(しゃかにょらい)坐像(ざぞう)のお顔です。

寛永8年(1631)に越後村上藩主(えちごむらかみはんしゅ)の堀直寄(ほりなおより)が戦没者供養を願い、一丈六尺(いちじょうろくしゃく=約4.85m)の漆喰(しっくい)製大仏を建立しました。
一丈六尺という大きさは、仏像を作る際の大きさの基準の一つであり、「丈六(じょうろく)」と略され、現代でも各地で丈六仏(じょうろくぶつ)が祀られています。
さて、直寄の建立した大仏は、正保4年(1647)の地震で崩れてしまい、木食上人(もくじきしょうにん)が二丈二尺の青銅(せいどう)製で復興しました。
そして元禄になると覆屋(おおいや=仏殿)が造立され、大仏は堂内に納められます。
その後、天保年間には仏殿からの出火による火災で大仏の首が落ちるという出来事に見舞われ、修復したものの今度は安政の大地震で再び首が落ちてしまったのです。
そこで三たび修復し、元の姿を取り戻したのですが、上野戦争後に明治政府が仏殿を解体、大仏は露座(ろざ)に戻ります。

ちょうどこの頃に正岡子規は
”大仏を 埋めて白し 花の雲” という句を詠みました。
あらわになった大仏の姿を、満開の桜がまるで雲のように覆っている、という句だそうです。
実はこの句、松尾芭蕉が詠んだ上野の「時の鐘」についての句である、
”花の雲 鐘は上野か 浅草か ” からあえて引用しているのですが、おそらく上野という共通点と、大先達である芭蕉への敬意を込めてのことなのでしょう。

大正12年、大仏は関東大震災でまたしても首が落下し、さらには太平洋戦争の供出令(きょうしゅつれい)で胴体部分が徴用(ちょうよう)されてしまい、お顔だけが残ることとなりました。
そのお顔を、レリーフ状にしてご安置しているのが現在の上野大仏というわけです。

度重なる天災・戦災を乗り越え、戦時中もお顔を守り抜くことができたことから、誰ともなく現在のお姿を、これ以上落ちることはない「合格大仏(ごうかくだいぶつ)」と呼んでお参りされており、近年では受験生をはじめとした多くの皆さまの信仰を集めています。
そのおかげさまで、十年ほど前には再び大仏さまに覆屋をかけることができ、その周囲を合格のお礼参りで奉納の「サクラサク合格絵馬」が彩り、年間を通じて大仏さまの周囲を花の雲が埋めています。
どうぞ皆さまのご参拝をお待ちしております。

東叡山寛永寺 教化部