8月のおはなし ~寛永寺 その②~

先月は寬永寺の創建に関わることを主にお話ししました。
寬永寺は幕府の祈願寺として発足したわけですが、今回もその辺りを掘り下げていきます。

江戸の象徴として東の比叡山、東叡山寛永寺が創建され、その初代住職には天海大僧正が就任しました。
幕府としては鬼門守護の祈願所が成立し、勅許を得て寺号(お寺の名前)に寛永の年号も冠することで格式も高まり万々歳。
一段落ついた気分だったのではないでしょうか。
しかし天海僧正の描いた東叡山はこれで完成ではありませんでした。

本坊完成から数年の内に、天海僧正は寬永寺山内に常行堂・法華堂・多宝塔・釈迦堂などの堂宇を次々と建立します。
これらはすべて比叡山内に点在する堂塔伽藍(どうとうがらん)を再現したもので、実際に延暦寺という寺を構成している様々な堂宇(どうう)を模すことによって、名目上だけではない東叡山を現したのです。
そしてそれは比叡山内だけに留まらず、比叡山の周囲に広がる様々な名所も再現します。

例えば、もともと上野の山の麓には不忍池(しのばずのいけ)と呼ばれる天然の池があったのですが、これを比叡山の麓に広がる琵琶湖(びわこ)に見立てます。
琵琶湖には竹生島(ちくぶじま)という島があり、そこには辯才天(べんざいてん)=弁天さまが祀られているのでそれに倣い、不忍池の中ほどにあった島を大きく造成し、弁天さまを祀る(まつる)お堂を建てたのです。
またこの当時、関東にも江ノ島や鎌倉(銭洗弁天)など有名な辯才天は既にいらっしゃいましたが、あえて竹生島から辯才天を勧請(かんじょう)=お迎えすることで不忍池の弁天さまを竹生島辯才天の分身として、琵琶湖との関連を強調したのです。

さらに天海僧正のこだわりは続きます。
京都東山の名刹として今日でも多くの参拝者が訪れる清水寺(きよみずでら)。
こちらを模して造られたのが寬永寺清水観音堂(きよみずかんのんどう)で、京都の清水寺と同じように懸造り(かけづくり)で建てられており、舞台より周辺を眺望できます。
清水観音堂もまた本尊の千手観音(せんじゅかんのん)を清水寺よりお迎えしており、平家物語の登場人物である平盛久(たいらのもりひさ)にまつわる伝説とともに伝わっています。
また脇侍(わきじ=本尊の両脇に祀られる仏さま)には地蔵菩薩(じぞうぼさつ)と毘沙門天(びしゃもんてん)が祀られているのですが、ここもこだわりポイントです。
そもそも千手観音の脇侍に地蔵菩薩が安置されていることが珍しいのですが、この地蔵菩薩はそれに加えて武装したお姿をしています。
これは清水寺の縁起に関わる坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の蝦夷征討にちなんだもので、勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)と呼ばれており、清水観音堂は本尊だけでなく脇侍まで清水寺に倣っているのです。
余談ですが、戦国時代には愛宕権現(あたごごんげん)を信仰する武士が多く(直江兼続の愛の前立てもそこから来ているという説があります)、その本地仏(ほんじぶつ)が勝軍地蔵であることから、愛宕権現とともに勝軍地蔵も広く信仰されたそうです。
筆者もそうですが戦国時代好きにはよく知られた勝軍地蔵を実際に拝める貴重なお堂ですので、少々脱線してご紹介致します。
(つづく)
                          東叡山寛永寺 教化部