3月のおはなし ~サクラ、サク~

3月に入ると、桜の開花情報をよく耳にいたします。上野の山にもさまざまな種類の桜が数百本あり、一年でもっとも賑わうひとときではないでしょうか。今月はこの「桜」に関するおはなしです。

寛永寺を創建された天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。そのため、寛永寺のご本尊が薬師如来である理由は、延暦寺のご本尊が薬師如来であることを見立てたもの。また「清水観音堂」は京都の「清水寺」に、「不忍池辯天堂」は琵琶湖・竹生島の「宝厳寺」に見立てられるなど、上野の山には思想的な仕掛けが随所にされています。

こうしたなか、寛永寺は德川家の祈祷寺として創建されたのですが、天海大僧正は德川家のみのお寺ではなく、庶民が広くお参りできる寺を目指しました。そこでお考えになったのは、参拝だけでなく観光の要素でした。なんと天海大僧正は上野の山を桜で有名な奈良の吉野山にも見立て、桜の植樹を行ったのです。この行動は協力者を得て、植樹を始めてから数十年ほどで上野の山は江戸随一のお花見スポットとして知られるようになりました。つまり上野に桜を植え、花見ができるようにしたのは天海大僧正と言って過言ではないのです。

ところが、江戸時代の花見は現在と大きく異なることがありました。それは「夜桜見物の禁止」です。現在の上野公園では夜でも桜が楽しめますが、江戸時代の寛永寺は午後六時頃に閉門していました。閉門後は当時のガードマンによって退出させられていたのです。

もっとも、今のように街灯がありませんから、酔っ払って夜桜を見物したら大変なことになるのではないでしょうか。現在も清水観音堂の裏手に残る「秋色桜(しゅうしきざくら)」を詠んだ一句を見てみましょう。

井戸はたの 桜あぶなし 酒の酔

桜に夢中になるあまり酔って井戸に落ちたら一大事。お花見のお酒は江戸時代より適量がよいようです。